2017年度からの消費税率引き上げ時の軽減税率導入で、宅配の新聞が適用の対象となった。単に税にとどまらず、広く民主主義のあり方にも絡むテーマとしてとらえたい。
この問題をかんがえるとき参考になるリポートがある。日本新聞協会の諮問を受けた法学者らによる「新聞の公共性に関する研究会」(座長・戸松秀典学習院大名誉教授)が13年9月にまとめた「新聞への消費税軽減税率適用に関する意見書」がそれだ。
「新聞は誇るべき日本の文化である」「新聞は日本全土のいたるところでサービスを受けられるようになっており、このユニバーサル・サービスこそが日本の民主主義の支柱であり、基盤である」と新聞への軽減税率の適用を是認した内容である。
「民主主義のコメ」としての新聞の位置づけだ。これは決して特別なことではない。欧米先進国で新聞に減免制度が導入されているのをみれば分かる通りである。
背景にあるのは、民主主義が成り立つために言論・出版の自由が保証されていなければならないという考え方だ。前提になるのは思想の自由市場論である。多様な言論が繰りひろげられることを通じて、真理や誤りがおのずとえり分けられていき、合理的な結論に達するというものだ。
そのためには新聞は綿密な取材による真実の探求を通じて、政府や企業などの統治に鋭く目を光らせ、権力をチェックする役割を果たす必要がある。
民主主義の一翼を担うジャーナリズムとして存在するのが何より大事になることを、その仕事に携わる言論人は肝に銘じなければならない。
ただ書籍・雑誌は有害図書排除の仕組みをどうつくるかなども考慮しつつ「引き続き検討する」にとどまった。活字文化を守り、知識への課税を最小限にとどめていくという視点も忘れてはなるまい。これは何も紙のメディアだけに限られたものではないだろう。
誰が見ても、「口封じ」のための軽減税率適用だと思うのです。
「活字文化を守り、知識への課税を最小限にとどめていくという視点も忘れてはなるまい。これは何も紙のメディアだけに限られたものではないだろう」、とかのアリバイ工作ぐらい偽善はありません。
これで新聞各社が軽減税率に異を唱えることがあれば、ただでさえ購読数が減っている中で自分で自分の首を締めることなります。
従って、本音は「嬉しい」の一言でしょ。
だが、「民主主義のコメ」とか言ってますけど、このネット時代において新聞が果たしている役割が「民主主義の支柱」となっているのか、相当の疑問があります。
例えば、朝日新聞の所謂「従軍慰安婦」報道のような、長年にわたる捏造記事が「民主主義のコメ」とか「民主主義の支柱」なのでしょうか。
あるいは、先の安保国会の時に「若者のデモ」とかをクローズアップする手法、マイナーな運動にも関わらず、まるで全国民的な運動かのように感じたのは、犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛んだらニュースになるのと同じで、稀な出来事を繰り返し報じることにより、あたかもメジャーな出来事のように仕立ててしまうのです。
これらは明らかに、最初から政治的、思想的スタンスありきで、それに沿うよう記事を作ってきた結果ではないのか、事実がなくても作文しちゃえばいい、トリミングしちゃえばいい、どうせ誰も検証のしようがないし、自分たちがやってることは「正義」であり、「大きな正義」のためには「小さな演出」も許されるという考えがメディア全体にはあるように思えてなりません。
かつて、公正中立を謳う放送局のドキュメンタリー・プロデューサーが、企画の下調べをする前にとんでもない「結論」を滔々と語り始めたのをみて、この御仁は自分の中で組み立てたストーリーに都合のいい素材を撮りたいだけだ、と感得したものです。
国民には、こうしたメディアの欺瞞性が見えてしまっている、いくら「民主主義のコメ」だと自称しようが、民主主義という正義の名の下に歪んだ記事を垂れ流し続けてきているじゃないか、この不信感が拭えないのです。
社説は自社の言い分なのだから、何をどう書いても自由です、しかし事実を事実として報じる記事ベースで捏造されたり、偏向されたりしたら、読者は何をもって正しいと判断できるのかということです。
洗脳という言葉で悪ければ、記事によって世論を誘導しようとしている、勿論、複数紙を丹念に読めば整合がとれない記事も多いので、何かがあるなと感じることもできましょう。
しかし、忙しい日常生活を送ってる多くの人が、そんなヒマな真似はできないないわけで、とにかく短い時間で事実を事実として捉えたいだけに新聞やらテレビやらネットを見ているに過ぎません。
その事実から得られる感触や考えや判断は、各人に任せておくことこそ民主主義なんだろうと思うのです。
親切なのかお節介なのかはよく分かりませんが、「俺らが正しい道を教えてやるよ」とばかりの報道は辟易としますし、だから新聞離れ、テレビ離れになっていることにメディア諸氏は極めて無自覚です。
昨日の朝日新聞社説では、「私たち報道機関も、新聞が『日常生活に欠かせない』と位置づけられたこと重く受け止めねばならない。(中略)社会が報道機関に求める使命を強く自覚したい」、などと殊勝なことを書いてますが、「社会が報道機関に求める使命」を一番に裏切っているのは新聞そのものじゃないですかね。